人間の『生きている』という現実

人間の『生きている』という現実


大学4年生の初夏、読みかじった本を繋げたものに定型的な「考察」を加えたような僕の卒論の草案に、指導教官の岡真理先生はいい顔をしなかった。
夏休みを経て次の報告会でまったく異なるテーマを持ち込むと、今度は少しほっとした笑顔で「前の草案を見て私は長嶋くんにすごく腹が立ったんだよ、人間の『生きている』という現実を何だと思ってるんだって」と言った。

この「人間の『生きている』という現実」という、一字一句違わず先生の口から出たままの言葉が、その後今に至るまでものを考える上での大切な指針になっている。

人は事物をとらえ、抽象化と具象化を行き来しながら理解し伝達してゆく。それは尊ぶべき知性の賜物だけれど、そのプロセスの心地好さに没入するうちに元の事物の向こうにあった膨大なことどもを取りこぼすことに無自覚になってしまう。
自分が「理解した」と思った何かの、そのさらに向こう側への想像力をどれだけ緊張感をもって自らに課すことができるか。それでもなお取りこぼされるものに対して、いかに謙虚でいられるか。

つまり一人一人の匿名でない他者の『生きている』という現実に対して、仮に理解できないまでもどれだけ慎重に思いを及ぼすことができるか。
人文や社会科学における思索のその基本姿勢というものを、話題にするのも気が引ける「辺野古の座り込み看板揶揄」のニュースに触れて思い出したのでした。