「分かっている」ことが過ちへと反転しうる危機について

「分かっている」ことが過ちへと反転しうる危機について


300匹以上の生き物を違法に捕獲し、販売目的で輸送するなどしたとして石垣島に滞在中の男性が逮捕された。ツイッターでも怒りや嘆きの声をたくさん目にしたけれど、過去に男性自らが法やマナーの遵守を説くツイートを繰り返していたことも、その声に拍車をかけたように思える。

生き物に関する法やマナーをよく分かっているはずの人が似たような過ちを犯したケースは過去にも聞いたことがある。そして生き物の世界に限らず、つい最近も弁護士が自らの専門領域において依頼者を加害したというニュースを目にした。
つまり「分かっている」ことと「過ちを犯さない」こととは必ずしも順接しない。そこにねじれが生じうる理由は何なのか。ひょっとしたら、気づきにくい落とし穴があるのかもしれない。そこに自覚的でないと、自分だっていつの間にか過ちの側に落ち込むということが絶対にないとは言い切れないと僕は思っている。

「分かってはいたけれど(お金の誘惑に負けて)我慢できなかった」り、「口では分かったようなことを言っていたけれど、実際には分かっていなかった」というようなことであれば、話は比較的シンプルだ。落とし穴は見えやすくて、自分は避けて通ることができるとも思う。

けれど僕が恐れるのは、「分かっていた『からこそ』過ちを犯した」というまったく異なる構造が、はるかに見えにくく、気づかぬうちに忍び寄りうるということだ。

たとえば女性と水族館に行き、二人分をまとめて払って受け取った2枚のチケットが水色とピンク色だったとする。そこで「はい、女の子はピンクね」と手渡して「何をまたバカなこと言ってるの」とはたかれる。僕は「女性=ピンク」という前時代的なステレオタイプの馬鹿馬鹿しさを知っているつもりでいるし、その上でのシニカルな冗談であることが確実に共有される関係と文脈の中でしかこうは振る舞わない。「ことの本質は分かっている、だからこれはあくまでジョークなんだ」と。

僕が学生時代に講義を受けた社会学者の大澤真幸さんは、「本気じゃないけどこっちの方が得だったり都合がいいからやった」というような思想と行動のねじれを「アイロニカルな没入」と呼んだ。そしてアイロニーの意識が行動を免罪する構造を指摘した。
この「本気じゃないけど」というのが、チケットの色のたとえ話での「ことの本質は分かっている、だから…」という部分である。つまり、「自分は本当のところは分かっている」という意識が、それに反する行動を免罪してしまう。

この考え方を今回の事件にそのまま当てはめるには無理があるように思える。
けれど、これがもし「多種多様な生き物300匹の販売目的での捕獲・輸送」ではなく、「1泊の滞在期間中に限りオオヒキガエル1匹を手もとに置いていた」であれば?
「分かってる分かってる、特定外来を拡散したらいけないもんね、だから1泊の間ちょっと手もとに置くだけ」というように、「分かっている」という意識が油断や免罪を生む心の動きを、僕は容易に想像することができる。

そして「オオヒキガエル1匹を1泊」が既に違法である以上、それが「中長期の滞在期間中に300匹を捕獲・輸送」へと変化してゆくまでの間に、人を確実に我に返らせる決定的な線引きはもはやない。
両者の間にあるのは単に「1匹と300匹」という程度の差ではない。けれど程度の差が開くにつれいつしか質の差へと変化するその過程は連続的で、気づかぬうちに足を踏み入れてしまっているということも十分考えられる。

今回の男性を擁護したいのではない(そもそも実際にこういう心の動きを辿ったかどうか僕は知らない)。
生き物を愛して方々を旅する皆さんのほぼすべてがこのような事件を起こすことはないし、僕自身も同じことをやってしまうとは思えない。
けれども、「分かっている」ことが反転して過ちへと落ち込んでゆくプロセスは、結果として現れた罪の突拍子のなさよりもずっと、思いがけないほど我々のすぐ近くにあるものだと思う。それを認識することが新たな罪を防ぐ一つの助けになるし、もし今回の男性がこういったプロセスで過ちを犯したのだとしたら、それを語ってくれることは今後への大切な教訓になると思っている。

(おわり)