同じ毎日を繰り返すこと
京都蔦屋書店での設営立ち会いを終え、大阪の実家に帰った。翌朝は父が毎朝の日課に作っている青汁のスムージーを飲み、母のサラダ(野菜:フルーツ:動物性たんぱく質=4:3:3)とそばを食べた。こう書くと朝日が差し込む洗練されたキッチン&ダイニングを想像してしまうけれどそれとは程遠く、写真がないことからお察しの通り実家は超が付くプライベート空間(直截な言い方をすれば散らかっている)なのである。
父が75を過ぎてなお営んでいる会社への出勤がてら駅まで送ってくれた。「あの青いTシャツの人、毎朝ここで走ってんのすれ違うねん。もう10年どころじゃないで。えらいわ〜」と歩道のおじさんを指して言うが、毎朝そこですれ違うということから知れる通り、父も彼に劣らず同じ朝の時間を毎日きっちり繰り返せる人なのだ。
地下鉄の入り口近くで僕を降ろすと、父は手を振って黄色の軽自動車を転がし去っていった。
父の朝食が一年を通してあったかいうどんかそばであることは、少なくとも僕が小学生の頃から30年以上変わることがない。つまり母もその間ずっとうどんそばの用意を繰り返してきた。母自身は父を評して言うほどに「判で押したみたいに」行動できる人ではないけれど、実家へ帰るたびに健康法含みのレシピ本を新たに持ち出してきて「この本すごい勉強になる。私今まで何にも知らんかったんやわ!」と興奮ぎみに見せてくれる。母にとっては新鮮な学びだが、その行動自体はこれも30年以上繰り返しているものだ。
変わること、成長することが是とされる。
安定は人が根本において必要とするものでありながら、しばしば退屈と同義にも用いられる。「現状維持」という言葉の評価はせいぜいプラマイ0のフラットが上限で、多くの場合「停滞」や「成長の放棄」といったマイナスのニュアンスを含む。
本当にそうなのか。
両親の日々の暮らしは尊いものに思えた。
けっして達観した無欲などではない(母はいまだに一攫千金の大逆転を狙っているふしがある)。この国の多くの人が過ごしているごく当たり前の、目の前の好ましさを求める毎日である。ただ、年相応と言うべきか、社会に行き渡っているように思える「成長しなければ脱落する」「変わり続けねばならない」強迫的な上昇志向(虚しいのはその上昇志向によって実現されるのが上昇ではなく自転車操業的な現状維持であることだが)からは解脱している。それが僕には本物の「丁寧な暮らし」に見えた。SDGsともスタイリッシュとも無縁な、本来の字義通りの単に「丁寧」な「暮らし」。
壮年の僕はおそらく両親よりはこの社会の中心部に近いところに身を置いて生きている。けれどもそこで是とされ知らず知らずのうちに内面化している価値観と、今回感じた両親への敬意は少し折り合っていないように思えた。