外来種の問題と移民にまつわる問題とは何が違うか

外来種の問題と移民にまつわる問題とは何が違うか


ここ数日、外来種の問題と移民にまつわる問題とは何が違うのか?という問いかけをTwitter上で何度か目にしたので、それを整理しておきたいと思います。
この二つの問題を混同するのは非常に危険なことで、個人的には議論云々ではなく「だって違うに決まってるじゃん」のひとことで終わらせたくなるのが正直なところです。しかし「違うから違う」で済ませることはこの問いをことさらの難問に見せかけ、深遠なる禅問答のような高みへと不当に引き上げることにもなりえます。

今回、これらの問題が「違う」ことを説明するのには、逆に「なぜ似ているように見えるのか」を出発点にするのが良さそうです。すなわち、「国外からやってきた存在によって自分たちが迷惑を被っている」とする心理あるいは表象です。
*絶対に欠かせない注釈ですが、移民は国や地域によって個別に異なる背景を有するセンシティヴな話題であり、このように受け入れ国側の目線にのみ偏って単純化された理解はいかなる場合も不適切・不十分であることを強調しておきます。
*また重ねての注釈ですが、外来種とは人為的に持ち込まれた生物種を指すのでその由来は国内・国外を問いません。ただ、一般的に問題視されている多くのケースが外来生物法において定義されている「外来生物」=国外由来の外来種であるため、ここではそれとして話を進めます。

「国外からやってきた存在によって自分たちが迷惑を被っている」とする心理や表象、これが両問題において似通っていることは認めねばなりません。
その上で違いを説明しようとするとき、つい陥りがちなのが【国外からやってきた存在】としての外来種と移民との違いを説明しようとするやり方です。これはいい手ではありません。この文脈において外来種と移民との違いを説明しようとすると、「人間だって生物の一種だろう」とか「人間だけ特別視することは許されるのか」とかそういう話になり、議論は結局のところ「ヒト」と「ヒト以外の生物」とを隔てる本質的な違いは何なのか?という人間中心主義の是非や生命倫理の話題へとねじれていってしまいます。そうなるとともすれば「ヒトも生物の一種。外来種を排除していいのならば移民も同様にしてかまわない」などという突飛な結論さえも出てきうる。

前提も背景も異なり、同じ俎上で議論すべきでない「外来種」と「移民」の違いを無理やり説明しようとすると行き詰まります。
ここでわれわれが考えるべきは、「国外からやってきた存在によって自分たちが迷惑を被っている」の【自分たち】が誰なのか、ということの方なのです。

外来種問題における【自分たち】とは人間社会であり、ヒト全体です。外来種がなぜこうも問題視されるかと言えば、それによって引き起こされる生態系の改変が、本来ヒトがそこから享受可能であったはずの利益を損ねると考えられるからです。これはヒトという種にとって普遍的な問題です。外来の肉食魚によって在来の魚が絶滅する場合、損失を被るのはたとえばその在来種を獲って生計を立てている漁師だけではない。短期的・直接的には一部の人間が利益を失うだけに見えても、それは廻り廻って社会そのものが得るはずだった潜在的な利益の喪失になります。

ヒトを一枚岩と見るこの文脈においては、「【自分たち=ヒト全体】の利益を守るために、【国外からやってきた存在=外来種】の権利を制限する」ことへの社会的な合意は概ね共有可能と考えていいでしょう。議論が求められるのはどちらかというと局所的に見た場合の「利益」の部分です。外来種とはいえそれを重要な生業の一部にしている人はたくさんいるわけなので(バス釣りの関係者の方など)、そういった人々の利益が直ちにゼロにならないよう注意しながら、生態系サービスの維持と最大化へと社会が舵を切っていく、今はまさにその途上だと思います。

霞ヶ浦のオオタナゴ(2015年撮影。2016年に特定外来生物に指定された)

一方、移民の問題における【自分たち】は、「受け入れ国の国民」ということになります。この場合、その利益を守るために【国外からやってきた存在=移民】の権利をどこまで/どのように制限するのか、話は外来種よりはるかに難しいものになります。

これはヒト同士の、社会の内部の問題です。そこでは、われわれは複雑で重層的な【自分たち】の概念を併せ持ちながら生きています。たとえばあるときは家族を、あるときは同窓の卒業生を、またあるときは応援するサッカーチームのファンを【自分たち】として。
しかしそんな中で、移民の問題における【自分たち=受け入れ国の国民】という概念は非常に不安定なものです。その理由はふたつ。まず国民として【自分たち】を定義する国家の枠組みそれ自体が、本質的にヒトを隔てるものとしての根拠に乏しいこと。詳しい説明は試みませんが、要するに国境を超えてやってきたのも同じ「ヒト」じゃないか、ということです。
そしてもうひとつは、移民の問題を考えるとき、仮に【自分たち=受け入れ国の国民】の立場で考えはじめたとしても、いつなんどき【国外からやってきた存在=移民】の側に転ぶか分からない、ということ。「明日は我が身」というわけです。たとえば温暖化による海面上昇のため、平均海抜が1.5メートルしかないツバルではすでに2002年から他国への移民が行われています。日本にいるわれわれはまだ差し迫ったリアリティを感じずにいられますが、その裏で酷暑もゲリラ豪雨も大型台風も洪水も、「今年だけが異常」かのように言われ続けてもはや常態化している。21世紀末までに1m以上海面が上昇するとの予測もあり、それを待たずして日本でも住処を奪われる人々が出てくる。環境問題はヒト全体が直面している課題であり、それとともに移民の問題を考えるならば【自分たち】の線引きはいずれ放棄せざるをえなくなります。
例として環境問題を挙げましたが、無論背景にあるのはそれだけではありません。グローバルな規模での諸問題の中で、何を私/私たちであると認識し、それに伴って何を他者だと捉えるかは重層的で不安定です。そんな自他が持続的に共存できる社会へといかに漸近してゆくのか。「国外からやってきた存在によって自分たちが迷惑を被っている」とする心理・表象がたまたま似通っているだけのことで、問題の構造は外来種とまったく異なるものです。どちらが重要か、という話ではありませんが、同様に考えることはできません。

大学生の頃、のちに研究者になる優秀な友人が「僕らは何かが『似ている』ということに必要以上の意味を見出そうとする傾向がある。そのことに気をつけなければならない」と言いました。今回の話題もまさにそのひとつの例です。混同することなく、それぞれの問題について考えてゆくことが大切だと思います。