
「魚が好きだから」の先を辿る
小学生の頃、水泳の授業が嫌で嫌で仕方がなく、何度か仮病で免れた。こんなにも嫌なのは、泳ぐのが苦手だからだと思っていた。それが間違った思い込みであると気づいたのはかなり後になってのことで、実際は泳ぎに苦手意識などなく、眼鏡を外すとほぼ何も見えなくなってしまうのが嫌なのだった。
自身の選択の理由を掴むのは、実はとても難しいことだ。そこに好き嫌いや快不快のような感覚が絡んでくるとさらに難しくなる。感覚というものは確固たる実体を伴って何にも先んじて私の中に現れ、「好きだから好き」「嫌なものは嫌」といった具合に力づくで自身を真ん中に据えてしまう。そしてそれを出発点にしてしまうと、選択の理由をたどる思考は時としてあらぬ方向へと逸れていくことになる。
●実際の因果関係は:
眼鏡を外すと何も見えなくなる
→見えないというのはとても不安で不快
→だから水泳の授業が嫌になる
●感覚を出発点とした見当違いの思考は:
水泳の授業が嫌だ
→つまりプールで泳ぐのが嫌だ
→それは僕が泳ぐのが苦手だからだ
好きとか嫌いという感覚は心の中で圧倒的な存在感を持つと同時に、それ以上説明不能なブラックボックスとして機能してしまい、思考を停止させてしまう(ことがある)。
* * *
「(絵描きなのは分かるとして)なぜ魚なんですか?」
活動を始めた頃から幾度となく問われ、「うーん…魚が好きとしか言いようがなくて…」と煮え切らない答えを返してきた。それで済ませると自分の中の大切な何かが整理も把握もされないまま放置されているという落ち着かなさがあったし、整合だけを前提に組み立てたそれらしい説明は水泳のそれと同じくどこか見当違いで、他人のことを話しているような自己疎外に苛まれた。
そんなモヤモヤを抱えたままの12年を経て、最近ようやく「魚が好き」という圧倒的感覚とつながっているさまざまな事柄を整理して言葉にできるようになった。
「魚が好き」は間違いない。でも描く理由は、魚そのものの姿を絵に表したいからではなく、魚と関わる中で得た感動の数々をそこにとどめ置きたいからなのだった。
小学生の頃、ノートの隅に鉛筆で小さなクロダイを描いた。父と訪れたいつもの堤防で、ウキ釣りの仕掛けに掛かったものだった。二人して初心者のわれわれにとっては憧れの魚で、20センチたらずの小さな個体とは言え手の中にあることが信じられなかった。鉤を飲んで傷つき、バケツの中で斜めに浮く姿は痛ましかったけれど、その名の通りいぶされた銀のように黒い魚体に力強い背びれのとげ、青く照り返す頬の光沢は惚れ惚れと美しかった。それを心の中に呼び起こすのが楽しくて、繰り返し描いた。クロダイという魚を説明したり、その日の釣果を記録するためではなく、父とクロダイに彩られたその瞬間をとどめ置き、何度でも思い出すためのトリガーとしての絵だった。

今日に至るまで、魚を描く理由は常にそれだ。その後もクロダイにまつわる感動は積み重なってゆく。深夜の海で水面まで引き上げながら糸が切れ、反転して深みへ消えていったときの放心。人けのない年末の堤防で釣り上げ、腹ばいになって何枚も写真を撮った高揚。
思い出だけではない。クロダイを描くとき、側線より上の背中側の鱗を図鑑に記されている通り5.5列にする。同じクロダイ属のキチヌは3.5列、ミナミクロダイは4.5列、ナンヨウチヌは再び3.5列。これらを精確に描くのは「それが科学的な事実だから」ではなく、「クロダイ属の魚がその点によって見分けられることを知り、実際に海でそれを確かめた喜び」や、「人間がそうしてこの世界を腑分けし、知を蓄積してきたことへの敬意」といった感動を形に表したいからだ。
感動とは、自らが生きるこの主観的世界をとどめ置きうる結節点、ゲームで言うセーブポイントのようなものだ。主観的世界——ひとりひとりの人間の前に立ち現れているこの<せかい>、本質的に誰とも共有することはできず、人生を終えればその瞬間に永遠に失われるもの——をとどめ置きたいという願いは、多くの人のスマホに誰に見せるでもない写真が大量に残されていることからも分かる通り、誰もが当たり前に持っている。僕が魚を描くのも、それに衝き動かされてのことだ。そして幸せなことに、それを続けてゆくと誰とも共有できないはずの主観的世界が、絵を通じて誰かのそれと交わることを感じる瞬間がやってくる。
魚が好きだから描いている。それは間違いないけれど、その行為の理由を辿ってゆくと自分が何を目的に描いているのかが分かってくる。「魚の姿かたち」ではなく、「その魚によってしるしづけられた自らの感動のひとまとまり」を捉え、形を与えるために描いている。


