知を重んじる

知を重んじる


伊豆大島からの帰りの船で石破首相の辞任を知る。とても残念で、この件に関する報道を目にするのも嫌なほど。

僕は知を重んじる人間を愛している。知とは、過去の数限りない人間によって試され、疑われ、鍛えられた果てにほんの一握り残されたものだ。それを重んじる人間は、自らの考えをもまた同じように試し、疑い、鍛えることができる。だから自分の言葉で話すことを恐れないし、他者からの批判を拒むこともない。批判もまた自らの考えを試し、疑い、鍛えるものであり、知としての練度を引き上げるからだ。

僕はそういった姿勢を強く備えた人、たとえば優れて客観的でありながらそこから自分自身の考えを謙虚にかつ堂々と導く研究者のような、そういう人を心から尊敬するとともに自らもそうありたいと常々思っている。

大学生の頃、僕の進んだ学部内にいわゆる左派の論客として知られる先生と、右派の大物と目される先生がいた。犬猿の仲なのだろうと思っていたのだけれど、二人が対談しているのを読むと意外にも話が噛み合っている。右派と左派の仲が悪いなどというのはレベルの低い話で、水準が高くなるにつれ知として共有されているものが増えてゆくので、たとえ結論が逆に転んだとしてもそこへ至る道のりの大部分は互いに理解できるのだと知った。
知とは、人間がよりよく生きるためにわずかずつ積み上げてきた(そしてこれからも積み上げねばならない)共有財産であり、相互に理解しつつ前に進むための重要な鍵なのだ。

石破氏が首相になり、報道を通じて少しずつその言動を知るにつけ、知を重んじる姿勢が国政の頂点において見られることへの驚きと爽やかな感動があった。こんな幸運が長く続けばいいと思っていたけれど、手持ち花火の幼い記憶のようにわずかな光芒を残して尽きてしまった。