他者へと手を伸ばす——人間の「生きている」という現実、パレスチナ、カタクチイワシ
イスラエルにより16年にわたって軍事封鎖され、大量殺戮を伴う4度の大規模攻撃を受けているパレスチナ・ガザ地区の燃料が25日夜にも尽きると報じられていた。医療機関の機能停止をはじめ、現在既に深刻なものである人道危機がさらに壊滅的に悪化すると懸念されていたが、その直接の続報は今のところ目にしない。
ガザ地区の問題については下記に詳しい。
「人権の彼岸」から世界を見る――二重基準に抗して
ウクライナへの関心と同等のそれがパレスチナには向けられないことを、執筆者の岡真理さんは「平和や普遍的人権を唱えながら私たちが実践している二重基準」によるものだと言う。「ガザの人々を関心の埒外に捨て置くことで国際社会は、パレスチナ人には私たちと同じように人間らしく生きる権利はないというメタメッセージを16年にわたり発信し、これを実行し続けている」。
すなわち、日本にいる私たちとてけっして無関係ではない、と突きつける。
これは本当に直視するのが苦しい言葉だと思う。誰もが眉をひそめ、多少なりともいたましい気持ちを抱かずにおれない惨状が、一転して「あなたもその一端を担っている」と指摘されるのだから。
この岡真理さんに、僕は卒業論文の指導を受けた。
大学4年の初夏、資本主義の今後について読みかじった本をつなげただけの僕の草案に、後日、岡先生は「人間の『生きている』という現実を何だと思ってるんだ」と怒りを表した。国際問題の渦中で苦境に置かれ続ける中東諸国をご自身の足で訪ね、文字通り「人間の『生きている』という現実」を目の当たりにしてきた先生には、僕の草案の無智と無神経と自己満足に満ちた上っ面の軽々しさが許せなかったに違いない。
この岡先生の言葉を、魚の絵描きになった今でも大切なものとして抱き続けている。そして笑われるかもしれないけれど、「人間の『生きている』という現実」にどうにか手を伸ばす他者理解の第一歩を、魚を見、描くことを通じて踏み出そうと常に考えている。
たとえばカタクチイワシ。
カタクチイワシは世界に9つの近縁種がいて、そのいずれもが水産上重要な意味をもって当地の人々の暮らしに関わっている。地球の反対側の見も知らぬ家庭の食卓にカタクチイワシが並び、あの少し骨っぽい滋味とともに人々の笑顔や泣き顔がある。そのことに、僕は自宅の台所でいりこの出汁を取るたびに、ほんのわずかにでも想像を及ぼすことができる。
これをもって「自分は人を思いやれる」などと言いたいのではない。むしろそれにかけては失敗続きで、この年齢になっても自己嫌悪に陥ってばかりいる。けれどこの、何ひとつ自分の思い通りにならぬ他者に満ちたわたしの世界にあって、その他者にわずかなりとも触れんとする手立てを持つとき、初めて自分はこの世界の中に確かに位置を占めているのだと、すなわち他者と関わって生きているのだと信じることができる。
岡先生の言葉の通りに、遠い異国の惨状に「私たちにも責任がある」と自覚するのは苦しく難しい。僕自身も含め、一足飛びに誰もができることではないと思う。けれどもたとえばカタクチイワシから地球の反対側の見知らぬ食卓に思いを及ぼすように、確かな感触を伴って他者を想像する術を私たちひとりひとりが少しずつでも手にすることができたならば。
18年前の初夏の、小さな研究室での優しくも手厳しい言葉を、そんな思いで僕は僕なりに、ただひとえにこの他者に満ちた、他者そのものとも言うべき世界に生きる自らを理解したいがために、形にし続けている。
(おわり)