「誰も自分を知らない土地で暮らしたい」感覚の正体

「誰も自分を知らない土地で暮らしたい」感覚の正体


「自分のことを誰も知らない土地に行って暮らしたい」と思うことがよくあります。珍しい感覚ではないと思います。

ですが、実際のところは今だってほぼ「自分のことを誰も知らない土地」で暮らしているのです。石垣島の中でも人口の疎な北部に住み、毎日自宅に籠って近所付き合いも皆無。コミュニティにも属さず、たまに街へ買い物に出たって知り合いに会うこともありません。
顔を指されることに疲れた芸能人のような台詞は勘違いもいいところですが、それでもなお「自分のことを誰も知らない土地に…」と思うのはなぜだろうと時々疑問に思うのでした。

ふと小さく気づいたのは先日の与那国滞在中のことでした。
初日はひたすら海を巡って釣りをし、夕飯も摂りそびれて深夜に民宿でビールと缶詰のみ。2日めはせっかくだから観光もして外で食事することにしました。

比川集落の八重山そば「さとや」さんに入ると、地元の方らしき先客が一人、お店のご夫婦と談笑していました。
コロナの時節柄、よそ者がどう映るか一瞬緊張しましたが、僕が店の外に釣り竿を立てかけるのを見ていたらしいご主人が「魚釣れたか?イカ釣りの竿かあれは」と懐っこい感じで話しかけてくれました。たちどころに安心して「魚です。小さいのが少しだけ」と答えると「ちっこい魚にそば食ってこいって言われたか」とご主人が笑いました。

てびちそばを注文して待つ間、ご主人と先客の方が釣りのこと、魚のことを話してくれました。島のアクセントをまとった言葉を僕はところどころでつかみそこね、文脈判断の曖昧な返事を交えつつ会話をしたのですが、それが思考と発話にズレをもたらすことを新鮮に感じていました。思考の完了よりも微妙に早く、自分の発話がどこか自動的に行われているように思えるのです。

会話なく一人きりで過ごす時間が長くなると、そこで行われるのは思考のみです。自分のペースで、一つを満足ゆくまで考えてようやく次に進みます。日常的に物事を深く考えているという意味ではなく、思考が思考で完結し、その速度も自分のみに依存しているということです。
が、久しぶりに「知らない人」と「知らないアクセント」を交えて会話すると、場に「自分でないもの」に依存する部分が生じます。それに突き動かされての発話は、自分の中に知らない動力源があったことを教えてくれるようでした。

運ばれてきたてびちそばを前に、これが僕の「自分のことを誰も知らない土地に行って暮らしたい」感覚の一つの正体だったんだと気がつきました。
自己完結の思考や、日常に対する概ね的確な予期、つまりは自分自身の内部に起きる反応に飽きていたのだと。思いがけない他者によって、使わないまま錆び付いていた自分の中の動力源を稼働させられたり、あるいはひょっとしたら新たな動力源を導入する必要に迫られるような刺激を求めていたようなのでした。

僕はけっして社交的な性格ではないし、人付き合いも得意ではなく億劫に感じることも多いです。が、好き嫌いも含め根本的に「人が好き」であるとは常に思っています。
特に思い通りにならない他者に惹かれることが多く、それは著書『THE FISH 魚と出会う図鑑』のテーマでもあるのですが、それが一つには自分の中の未知を教えてくれるからなのかもしれないということに、今回改めて気がつきました。

てびちそばはおいしかったです。そして食事の後、教えてもらったポイントでカンモンハタを釣りました。石垣でもありふれた魚ですが、この個体の地色の濃さは珍しく、そのことも相まって思い出深い1尾になりました。