東京湾のアベハゼと、石垣島のタヌキハゼ−アベハゼ属の魚たちから教わること
個展会期中のお休みの日に、東京湾の多摩川河口域へ魚を見に行ってきました。
目当てはアベハゼ。日本には8種ほど生息するとされるアベハゼ属の一種で、4センチほどの小さなハゼです。
この仲間の多くは国内では南西諸島に分布するのですが、本種だけが北は宮城県まで広く見られる温帯種です。
アンモニアを尿素に変換する特殊な能力を持ち、有機的な汚濁が進んだ環境にも適応していることから都市部でも身近な存在であり、本種がその名の通りアベハゼ属の代表種であることは間違いありません。
しかしそんなアベハゼが私にとってはまだ見ぬ憧れの魚で、今回の東京行きでどうにか見たいと思っていたものでした。
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私が小型のハゼに興味を持ち始めたのは東京から石垣島へ移り住んだ後のことです。
マングローブの林床に点在する、どんぶり鉢ほどの小さな水たまり。魚がいるとも期待せず何気なく釣り針を沈めると、ひょろひょろしたか弱い反応とともに黒っぽい小さな魚が掛かりました。
家に帰って調べてみるとそれはタヌキハゼで、アベハゼ属の南方種でした。やはりアンモニアを変換する能力を持っており、それが泥の中の小さな水たまりで生き抜くことを可能にしているのかもしれません。
そんな水たまりの釣りに魅せられて、泥まみれになりながらマングローブを歩き回りました。すると同じくアベハゼ属のナミハゼ、ホホグロハゼも見ることができ、この仲間の多様性と生息環境にどんどん興味が湧いてきました。
そうなると気になるのは、代表種たるアベハゼです。
私が東京在住の頃から身近にいたはずで、分布域で日本地図を着色しても圧倒的に優占するアベハゼですが、南方種から入った私には温帯のフロンティアへ適応していった挑戦的異端児に思えます。
マングローブの泥の中に生きる小さな魚の眷属が、東京湾ではどのような環境に生きているのか、そしてどのような姿をしているのかを知りたくなりました。
図鑑をめくると「泥底の穴の中、石やカキ殻の間や下」に見られるとあります。そこでGoogleマップを頼りに、まずはカキ殻の多そうな水辺を狙いましたが…
釣れるのはアゴハゼ属のドロメばかり!マングローブでタヌキハゼたちが暮らす環境を思い浮かべても、ここはアベハゼの居場所ではないような気がします。
場所を変え、小河川の河畔に泥が溜まってできた小さな干潟へ来てみました。干潮で取り残された水たまりを覗くと、慌てて逃げ惑う黒い影。頭の丸さがタヌキハゼに似ているように思い、慎重に網に追い込んでみると…
当たり!狙い通りのアベハゼでした。
顔つきや体型は確かにタヌキハゼによく似ています。同程度の大きさの個体で比べてみると、多少アベハゼの方がスマートかもしれません。鰭の色彩はこちらの方が随分と鮮やかです。
これがマングローブの水たまりにいた魚たちの親戚筋だと思うと、アベハゼという種が歩んできた(そして今も歩みつつある)道のりへの感慨を抱かされます。
学術的な裏付けは私にはないので想像の域を出ませんが、黒潮に運ばれたはるか遠い祖先の一部が次第に温帯域へ進出し、定着して種分化しつつ分布を広げたのだろうと思います。
そしてまた、私という人間がこの世界に向けている目線を、かれらが相対化してくれることの重みも感じずにはいられません。
私が石垣島へ移ることなく東京に居続けたならば、アベハゼを挑戦的異端児と見るのではなく、逆にタヌキハゼを「今なお南方に栄えるアベハゼ属のルーツ」として見ていたはずです。
当たり前のことですが、自らの身の置き場を変えれば認識がこうも変わる。それは魚に限らず生活のすべてにおいてそうであるはずで、それを思い知ることが本質的には理解不能な他者というものに多少なりとも歩み寄り、思いを及ぼす一つの手立てであるに違いありません。
そしてまた私の地図においては、東京湾の小さな干潟と石垣島のマングローブ林という明示的には関係のない二つの地点が、アベハゼ属の魚という一要素によって紐づけられ、理解の体系に組み入れられました。
こうして自分の足で歩き、自分の目で見、自ら触ったものによって、自分の世界が自分のやり方で体系づけられること。私はその喜びを求めて、今ひとつ未熟なままの行動力と、誰かにガイドを求めたくない少しの依怙地をもって水辺を歩き、魚を見続けているのだと改めて思います。