『センス・オブ・ワンダー』と夜の海
レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳)を読む。
中学か高校の英語の授業で触れた記憶があるのだけれど、全文を読むのは初めて。友人に夜の海の話をしたら「センス・オブ・ワンダーみたいな話だね」と言われ、読んでみようとさっそく手に入れたのだった。
“ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。”
たしかに、冒頭のこの一節からして自身の夜の海の経験がちょうど挿し絵のように脳裡に浮かぶ。
1時間もあれば読み終えてしまうほどの分量に、これというあらすじはない。身の回りのあらゆるものに目を凝らし、耳を傾け、手触りを確かめ、匂いを嗅ぐ、そうしてこの<せかい>と初めて出会ったかのようにみずみずしく接することの楽しみと尊さが、静かな熱をもって書き連ねられている。
夕方の喫茶店で読み終えて、自分はこのみずみずしさをきちんと持っているだろうかと省みた。近頃、夜の海に出ても狙いの魚ばかりを求めてせわしなく目を動かしている気がする。ごく限られた知識をたのんで「見るべきもの」と「見なくてもよいもの」をよりわけ、最短で効率よく「見るべきもの」だけを求めて海を歩いている。
その夜、もう一度初めてのときのようにまっさらな気持ちで、「あれは何だろう」と思ったらその都度しゃがんで時間をかけて見ることにしようと決めて海に出た。
魚ばかりを求めて、あるいはどうせ同定できないから…と見て見ぬふりをしていつもは素通りする生き物たちにひとつひとつ足を止め、改めてその美しさに触れ直した夜になった。
(おわり)