月追い
このところ、どこかそわそわと落ち着かない日々を過ごしている。
水辺に行こうかなと思っては「そんなことしてる場合じゃない」と打ち消し、机に向かうと「この陽光の今こそ魚を見に行かないといけないんじゃないか」と窓の外ばかり気にする。
そうこうするうちに絶好の干潮のタイミングを逃し、これで机に向かうしかなくなったと安堵していると今度は「潮位に関係ない港か川へ行くべきなんじゃないか」と追い立てられ始める。
以前「迷ったときは『行け』ですよ」とアドバイスされたことがあるし、逆に「気乗りしないときは行かない方がいい(安全面で)」と忠告をもらったこともある。どちらも大切にしている言葉である分、迷いも深まる。
結局そうして何にも集中しないまま日付の変わったある夜、キッチンの窓がやけに青く明るいことに気づいて外に出てみると煌々たる満月だった。空は穏やかに澄み渡って風もない。ふと、近くの小さな湾に行ってみようと思った。南中を過ぎて傾き始めた月が、かすかに揺れる西向きの水面に光を投げかけているはず。
果たしてその通りだった。
「このまま月が沈むまでここでこうしてしゃがんでいたりして」と、冗談として思った。気が短くひとところにじっとしていられない自分が、そんな洒落た時間の過ごし方ができるわけがない。
すると次の瞬間「じゃあ月を追いかけて西の岬まで行ってしまおうか」とひらめいた。時計を見ると3時前、車でまっすぐ向かって30分の岬へ行くのには少しの思い切りが必要だけれど、冗談で片付けるほど突飛ではない。戻りは朝方になるだろうけれど、考えてみれば別にそうやって生きてかまわないんだと思った。石垣島へ移り住んでまもない頃、いつもそうして気まぐれに真夜中から海に出かけていたことを思い出した。
音楽を大きめにかけて、寄り道しながら西の岬を目指した。
街路樹から落ちたミフクラギの花が、ヘッドライトの光に浮かんでは飛び退ってゆく。
海岸林を抜けた先の、小さな桟橋が突き出した浜。
林の中には古い舟が打ち捨てられていて、水が溜まってカエルの楽園になっている。四方から渦巻いて降り注いでくるサキシマヌマガエルの声。
昨秋の個展「月煙る」で描いた海。
北風が吹き付ける冬の間は、リーフエッジで砕けた波飛沫があたりに立ち込めて月光を含み、闇を捉えきれない網膜に白々と煙った山影を映す。
けれどこの日は風もなく、満潮に向かう海面はリーフエッジをやすやすと越えて穏やかで、陰影のくっきりした景色が立ち上がっていた。
そして西の岬、御神崎へ。
次第に高度を下げ朱く膨らんだ月が、雲をくぐって沈んでいこうとしている。
足下に小ぶりのヤシガニが2頭。
海面に映る光がどんどん弱くなっていく。
月の入りまでまだ20分ほどある。もう一か所、開けた海で沈む姿を見たいと思って車を走らせるうちに、しかし、月はどこかへかき消えてしまったようだった。
(おわり)