『タイミングの社会学』──人の生をその生きられているままに捉えようとする姿勢


石岡丈昇『タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー』青土社、2023年

昨年読んだこの本が、学生時代までを振り返ってみても今もっとも常に手もとに置いておきたい一冊になりました。
フィリピン・マニラの貧困をテーマに、権力による抑圧や暴力とそれに直面する人々の姿から社会のあり方を考えたものです。

夢中になれる本があると、ほんのわずかな余暇にも「あ!あれ読もう」という選択肢が輝かしく心に浮かんで嬉しくなります。そうして続きを読み始めると、わずか数行進む間にも高揚に衝き動かされて本を閉じ溜め息を吐いたり、意味もなく立ち上がったり。濃密で幸せな読書体験でした。断続的に読み返す今もそれは変わりません。

その高揚の理由は、著者の石岡さんが一貫して大切にしておられる基本姿勢にあります。
あえて僕の言葉で説明を試みるならば、「理論やデータといった『結果』を見ることで、人や社会を理解したと勘違いするな。一人一人の人間が生きている『まさにその瞬間』に目を向け、そこにある本質を汲み取ることこそが重要だ」というものです。
石岡さんのあらゆる論考の背景には常に確固としてこの態度があり、それゆえ言葉のひとつひとつが人間の生の機微に沿った圧倒的な生々しさで流れ込んでくるのです。

たとえば石岡さんはマニラでロセリトというボクサーと親しくなります。ロセリトは試合が組まれず収入がなくなり、電気を止められてしまう。隣家からこっそり盗電して点けたテレビの薄明かりだけで過ごす夜を一家と共にし、石岡さんは貧困とは「恐怖」であると痛感したと言います。往々にして所得や政策の観点から語られる貧困の核心は、実は一人一人が身をもって感じる「恐怖」にあるのだと。

ロセリトは後に妻と子どもを生まれ故郷のセブに送り、自らはボクシングジム(日本の仕組みとは異なるため本書ではボクシング・キャンプと呼ばれる)に住み込むことで生活を立て直しますが、石岡さんは「こうした帰結──妻子との別居──を前提に、そこからの振り返りの観点で、冒頭の暗がりの部屋の出来事を上塗り的に解釈」しないことが重要であると釘を刺します。“マニラのとある家庭の所得がこれぐらいだった、それは貧困に該当するレベルで、かれらは別居と住み込みにより家賃負担を軽減することで対処した──”という結果からの俯瞰だけでは、ロセリト一家が現在進行形で感じていた暗がりの恐怖という重要な要素を見落としてしまうというわけです。

この姿勢は、石岡さんの研究手法である「エスノグラフィー」の根幹をなすものです。自らが直接見聞きしたものをつぶさに書きとめてゆくこの手法は、人々の生を第三者的に眺めるのではなく、かれらが生き、感じているままに浮かび上がらせようとします。

本書の特に前半において、この基本姿勢は繰り返し強調されています。

貧困率やスクオッター地区数などの統計データは「見事なスケルトン」を作り出すことを可能にする。だが私は、テレビ画面の薄明かりだけで夜を過ごす一家の様子から、貧困を考えたい」(p.24)

出身地などの変数はもちろん重要であり、正確にデータを集める努力が不可欠であるが、それは「彼が見ているもの」に接近するための素材であって、そうした変数でもって人の経験を裁断するものではない」(p.27)

私が本書で目指しているのは、社会生活を無時間化してしまう分析と手を切ることである」(p.88)

中でも熱を帯びるのは第3章の末尾。
社会学が理論を必要とするのは、一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの「ものの見方」に分け入るためであると私は考えている。理論は、説明のための図式としてではなく、人びとの実戦に分析的に入り込むための道具としてある。一般性の高い説明モデルを構築するためではなく、人びとの実践の豊饒さを言語化する武器としての社会学の可能性が、そこには賭けられている」(p.152)

つまり、理論やデータを手にすることそれ自体が理解なのでは決してない。それを有用な武器として携え、人々の心や暮らしへと目を向けその営みを理解しようとすることこそが大切だというのです。

これは、僕が大学時代に卒業論文の指導教官である岡真理さんから厳しくも愛をもってかけられた言葉、「人間の『生きている』という現実を何だと思ってるんだ」とも根を同じくするものです。

また、別の機会に改めて文章にするつもりですが、いま僕自身が絵を描く上で(またそれ以前にそれ以上に、生きる上で)大切にしている「木は今ある樹形を目指して枝を伸ばしてきたのではない」という目線とも通底しています。樹形=結果はわれわれが生き続けている〈いま〉という点の集積であり、生の本質をつかもうとするならばまさに枝を伸ばそうとするその一つ一つの〈いま〉の方にこそ重点を置かねばなりません。

そうして、僕がものを考える/絵を描く/生きる上で大切にしていることを、石岡さんはずっと深く突き詰めて洗練させ、自らのライフワークである研究を通じてこの社会と前向きな形でつながることに活かされている。それへの心からの敬意と高揚を抱きつつ、僕はこれからも自らの思考と表現に邁進したいと思っています。