ゴミの「向こう側」を想像する回路


medicine

2015年の秋、南伊豆のとある海岸に打ち寄せられていた抗生剤です。
どうも気になってカメラを向けました。この薬の主はどんな病気だったのか、なぜ飲まずに落としてしまったのか、そんな「向こう側」を想像することに惹かれたのでした。

最近になって、この写真を何度も見返しています。
ゴミの「向こう側」を想像することが、僕にとってはとても大切な回路になると気づいたからです。

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これまで、環境問題について何らかの意思表示をすることを意識的に避けてきました。
そこにはいろんな理由と、言い訳と、自己嫌悪があったわけですが、今年はそこに足を踏み入れることになるかもしれない、そんなお声がけをいただきました。

それ以来、自分のパーソナリティと絵描きの職能で何ができるだろうか、何をしたいだろうかと考えてきました。
そして辿り着いたのが、環境問題への取り組みに気後れなく・心地よく一歩を踏み出すための思考回路を形にしてみたいということでした。
それが、冒頭の「向こう側」を想像する、ということです。

そもそも、なぜ僕はこの問題を避けてきたのか。
「生き物界隈」に身を置きつつこれを言うのは勇気がいることですが、ひとつには環境問題というのはやはり「重い」のです。

誰もが今のままでいいとは思っていない。取り組まないといけないと思っている。やるべきことはいくらでもある。
少しやってみる。でももっとやっている人はたくさんいる。自分はそこまではやれないかもしれない。後ろめたくなってくる。後ろめたくなってくると、この問題の「重さ」がますます負担になる。……

僕自身、このループに息苦しさを感じていました。
が、最近になってそれをやわらげるのが「向こう側」への想像力ではないかと思い始めました。

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2016年の春に石垣島へ移り住んで、僕が得た大切な学びのひとつは、「自分の今いる場所を相対化する」ということでした。つまり自分のいる「ここ」が絶対で、他は異世界だというわけではなく、「ここ」も「他のどこか」も何ら違いのない同じ世界なのだと。

テレビに映った遠い異国の人々が、煮炊きをし、住みかをととのえ、笑ったり怒ったり泣いたりしながら日々を暮らしている。地球上のどこであろうと、そこには僕たちと同じような日常があるということにそうしてふと気づく(『黒潮魚の譜』より

この学びが、今年1月に訪れたベトナムでの経験に解釈をさずけてくれました。
下は、ベトナム南部の都市、ファンティエットの漁港の風景です。

PhanThiet

今回の旅で、ひょっとすると魚以上に印象に残ったのがこのゴミの量でした。
新興国のエネルギーを感じると同時に、世界規模で環境問題を考える時に避けて通れない図式が頭に浮かびました。「この段階を通過した先進国と、まさに渦中にある新興国」の図式です。

以前の僕であれば、そのままこの「図式」を相手に思考の糸口をつかもうとする、頭でっかちな世界に入り込んでいたかもしれません。
ですが今回の旅では、ベトナムに縁のある、僕の石垣の住処の家主である小菅さんのご案内で、当地の方々の暮らしを直に感じる機会がありました。おかげで僕は、この港の風景を「新興国のゴミ」という行き止まりの思考ではなく、「人々の日々の暮らし」という「向こう側」があるものとして見ることができました。

そして石垣での学びの通り、「ここ」も「他のどこか」も同じ世界である––つまり、この大量のゴミの向こうにあるベトナムの人々の暮らしも、日本での僕の暮らしも、本質的にはつながっており、なんら違いがないのです。

そのことが僕に、「大きくゆるやかな当事者意識」というものを初めてもたらしました。

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恥をしのんで言いますが、僕には環境問題に対する「当事者意識」というものがなかったようです。

「地球環境」は僕にとって、とても大切だと頭ではわかっているけれど、それを実感するには大きすぎる抽象的な概念でした。
だから環境問題に取り組むには、その概念へのある種の「帰依」が必要でした。レジ袋を断る、ペットボトルをリユースする、募金するといった個々の行動はその帰依の証であり、常に概念に照らして自らの信心を監視しなければならなかったのです。

正直、そもそも信心に乏しくストイックでないくせに、頭でっかちで「やらねばならない」だけは重く受け止める心理傾向の僕には、これは苦しい。
同じように感じる方も、実は多いのではないかと思います。

そして何より、この「抽象的概念への帰依」には、結局のところ「当事者意識」が伴わない。
「善であるからする」というのは、僕にとっては「言われたからやる」に近い他人事感があったのです。

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では、ベトナムで初めて持った「ゆるやかで大きな当事者意識」とは何か。

びっしりのゴミを見てまず思ったのは、語弊はありますが「まあ仕方ないよなあ」ということでした。
おそらく過去の日本もそうだったのだと思いますが、経済成長のスピードが、社会基盤の整備や文化・習慣の変容をはるかに上回っているために、処理が追いつかず不整合が出る。大量のゴミはその表れです。

つまり、悪意ない人々の日々の暮らしが、この状況を生んでいる。
その「日々の暮らし」の体温のようなものに目を向けると、愛情に近いような感情––それが言葉にすると「まあ仕方ないよなあ」なのですが––が湧いてきました。
と同時に、かれらの暮らしと本質的に違いがない「僕の暮らし」もまた、確実にここにつながっているのだということが素直に腹に落ちました。

自分だってレジ袋使うし、風で飛ばしちゃったこともあるし。
自分の行動を、後ろめたさなく振り返ることができる––それは、それまでの「抽象的概念への帰依」の段階では僕にはなかったことです。
「信心」に照らして自分を責めるのではなく、目の前の状況を自分のものとして受け入れる当事者意識。
しかもそれは、本質的に普遍的な「人々の日々の暮らし」を背景としているゆえに大きく、そして大きいがゆえに多くの人々がカバーし合って背負えるというゆるやかさがある。

僕はこれが、環境問題への取り組みに対して感じる重さ、息苦しさをやわらげる回路だと思いました。

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繰り返しになりますが、「信心」に照らして自分を常に律し、行動するのは時に苦しい。その苦しさゆえに、そもそもそこから目を逸らしたくなることもある。

目を逸らすことの後ろめたさや気後れは、人から前向きな思考や行動力を奪います。
けれども、「日々の暮らし」を背景とした大きくゆるやかな当事者意識は、後ろめたさや気後れから人を救い、この問題への取り組みを心地よく後押ししてくれる。
……かもしれない、と思います。少なくとも、僕にはそうでした。

これから年度末です。おそらく、各地で予算消化と思しき土木工事が増えてくるのではないでしょうか。
もし、自分の好きな自然の景観や生き物の生息地がそれによって好ましくない影響を受けたとき、それへの反対や憤りの声を素直に上げることができない自分に後ろめたさや自己嫌悪を感じたなら(僕はたいていいつもそうです)、その工事の売上で夕飯のおかずが一品豪華になった家庭の笑顔を思い浮かべてみるといいかもしれません。

そうやって「向こう側」にある「日々の暮らし」を想像してみれば、その工事も自分にとって「大きくゆるやかな当事者ごと」になって、憤りのエネルギーではなく、愛情をもって「じゃあどうすればよかったのか」を前向きに考えることができるかもしれない。
それはそれで、大きな可能性を持った思考だと思うのです。