三陸を旅する:3.陸前高田市立博物館

三陸を旅する:3.陸前高田市立博物館


2.陸前高田の震災遺構 編から続く)

館の常設展示の一番最初に置かれていたカモシカ?の頭骨と書き置き。

「市教委」とありますが、市教委の中にこの書き置きを残した方はおらず、どなたかが被災後の早い段階で収蔵品を守るために名前を使ってメモを残したと見られるそうです。

今回統合された「海と貝のミュージアム」と、市立図書館・埋蔵文化財保管庫も含め震災で56万点の資料が損壊・散逸。そこから46万点が回収され、うち30万点が全国の博物館や大学、専門機関・団体等の協力により修復されたとのことです。

被災して損傷、泥をかぶった昆虫標本
その修復についても解説があります
被災直後の写真も随所にあり、作業にあたる方々の姿に心を打たれます

そもそも陸前高田市立博物館の収蔵品は99.9%が市民からの寄贈によるものだそう。津波による流失後も、何年も経って館の標本番号が記された貝殻が市民の方から届けられたり、「うちにあった〇〇が無事だったから流された資料の代わりに」と寄贈があったりしたそうです。

それらの話は館内の説明板や映像で見たのですが、こちらの記事にも同様の内容がまとめられていました。館の職員で唯一の生存者となった学芸員の熊谷賢さんのお話です。

展示のひとつひとつを見ていると、館はここに暮らす方々に「愛されてきた」という以上に、そもそも存在の証、存在の一部なのだと感じさせられます。

もちろん震災のことだけでなく、はるか以前からの自然史やそこで繋がれてきた人々の暮らしについても展示されています

そして私の絵をお使いいただいた「奇跡の海 三陸」コーナー。修復・複製された数々の剥製とともに、アクリル板に印刷され型抜きされた500種の魚が泳いでいます。

この旅行記の冒頭でも書いた通り、私はこの絵に取り組んだ間の自身のあり方を後悔しています。
大切な館の再建がなされた今になってそれを書き表すことが適切なのかどうか、迷いも恐れもあるのですが、私自身が今後どのような姿勢であるべきかを忘れずにいるために、つまりひとえに私自身のために、独善であっても文章にして残しておきたいと思います。

気仙沼の街並みと電飾、陸前高田の震災遺構、そして博物館内の展示品とそれにまつわる人々の暮らしや思い。それらを目の当たりにした上で改めて自身の絵を見ると、これを描くにあたって念頭に置くべきであったこの土地や出来事や人々のことを、完全に取りこぼしたままであったことを認め、恥じざるをえません。
館の関係者や市民の方々や、全国から寄せられた知識と技術と労働力によって館が再建されてゆく中で、私自身は目の前の一尾を描くことにしか意識が向いておらず、その向こう側に延々と連なり広がるものへ思いが及んでいませんでした。

500点の絵の受諾可否の打診をいただいたのが2019年の夏。私はその意義と重さを当然認識し、もし実際にプロジェクトが動き始めたなら、その期間中は石垣島から陸前高田へ移り住んで絵に専念することを考えていました。
しかしその半年後の2020年初頭にゴーサインが出、およそ1年後の納期までに360種(残り140種は私の過去の作品を使用することになっていました)を描くというスケジュールに直面したとき、「自分は忙しい」と、私は悪い意味で過剰に興奮してしまったのだと思います。2泊3日あれば石垣島から行って見て帰ってこれる三陸に、結局そのまま一度も足を運ぶことなく、ただ忙しい忙しいと必死に描くことにだけ気を取られ、どんどん視野の角度と射程を狭くして机に向かい続けたのでした。

絵そのものには真剣だったと言い切れますし、この壮観な展示にお使いいただいたことへの喜びと感謝の気持ちはもちろんとても大きくあります。が、ここに至る自分のあり方を振り返ると、500点の絵が館の中で、今は他人の顔で浮かんでいるように見えてくる。そんなものは私の自意識に過ぎないのですが、それをそのまま許すのか、あるいはここに存在する意味をこれから見出してゆくのかは、私の今後の姿勢と行動次第なのだと思いました。

恥ずかしい気持ちを抱えたまま館を出て、向かいの商業施設内の書店に入りました。
今少なくとも何か一冊手にしたくて、郷土本コーナーで瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(2019年、晶文社)を購入しました。

美大生だった瀬尾さんは、震災後間もない三陸をボランティアで訪れたのをきっかけに、その後当地に移り住んで人々と関わりあいながら絵や文章での制作をされています。
書名「あわいゆくころ」とは、震災直後の壊滅的な時期から、「新しいまちでの日常が動き出し」たと瀬尾さんが感じる2017年春頃までの7年間。「平らになった地面から何かを形づくっていくまでの」この日々が語られないまま薄れていっているように感じ、「誰かが忘れずに、覚えていてくれるように。そして同時に、誰もが忘れてもいいように」と書き記されたものです。

震災後11年以上一度も訪れなかった三陸を初めて訪れた私には、その「あわいゆくころ」はもう自身の目で見、感じることはできません。気仙沼の広い道路とまっすぐな建物を目にしてすら、気づくまでに間があったほどの鈍さです。一本松やユースホステルもあくまで保存された「遺構」であってそれ自体は震災ではなく、そこから何を感じ、考えるかは見る側次第の一つのきっかけに過ぎません。

何かをすぐにつかめるとは思わないし、今考えていることも的外れかもしれない。けれども私は自分自身のために、姿勢や行動を考えていきたいと思います。

そんな三陸の旅でした。

(おわり)