愛らしいカエルの手の届かなさ

愛らしいカエルの手の届かなさ


2月の夜、マンションの敷地内でサキシママダラというヘビを捕まえて飼い始めて以来、数日に一度は近所の「漁場」に餌のオタマジャクシを捕りに行くようになりました。
そこは山の上から降りてくる側溝の溜まりで、カエルたちがここで産卵しているというよりはまとまった雨のたびに卵やオタマが流されてき、また流されてゆくようです。ある時は突然現れた大きめのオタマで混み合っていたり、またある時は一晩のうちに種類が置き換わっていたりしました。

オタマジャクシがいる水たまり

オタマジャクシがいる水たまり

毎日行くのも面倒なので多めに捕ってストックするうちに、2頭がカエルになって上陸してしまいました。後ろ脚が生えそろってからの、「前脚ができて尻っ尾がなくなる」プロセスが思いのほか速いのです。オタマを飼うなどというのは小学校低学年以来なので、成長スピードを見誤っていたのでした。

表情と手足を備えた途端ヘビの餌にしづらくなってしまい、飼ってみることにしました。オタマのうちは今ひとつ見分けがつかなかったのですが、種はヤエヤマアオガエルであると分かりました。

色が明るく、指が黄色い「枝豆」。餌に対してアグレッシブで、どんどん食べてどんどん太ります。足を滑らせて落ちたところに虫が歩いてくるというようなことがなぜか重なる強運の持ち主でもあります。

ヤエヤマアオガエルの「枝豆」

ヤエヤマアオガエルの「枝豆」

色がややくすんだ「茶豆」。あまり目がよくないのか、以前はなかなか虫に気づかなかったり狙いを外したりしがちでいつも痩せていて心配でした。給餌量を増やすうちにこちらも少しずつ福々しくなってきました。

ヤエヤマアオガエルの「茶豆」

ヤエヤマアオガエルの「茶豆」

ヤエヤマアオガエルの他に、同じ水たまりで入れ替わるようにもう2種を見つけました。

ヒメアマガエルはオタマの形が特徴的なのですぐにそれと分かりました。最近3頭が上陸しました。小さい上に跳躍力がすごく方向が読めないので、給餌や掃除の際に脱走すると見失いそうで焦ります。

上陸後数日のヒメアマガエル

上陸後数日のヒメアマガエル

サキシマヌマガエル。オタマがアオガエルより「寄り目」なので違いに気がつきました。本種は警戒心が強く、僕は野生ではっきりと姿を捉えたことがないのでカエルになるのが楽しみです。

サキシマヌマガエルのオタマジャクシ

サキシマヌマガエルのオタマジャクシ

そうして日々身近にカエルに触れるうちに、自分がなぜ惹かれるのかが少しずつ分かってきました。

姿や表情、動きが愛らしく、人が愛情を注ぎやすい。何か考えていそうにも見え、擬人化されることが多いのにも頷けます。
ですが魅力の本質はそこではなく、180度逆の「他者性」とのギャップにこそあると気がつきました。かれらが突然見せるプリミティブな生々しさが、人の愛情や投影をポンと突き放す。そこに生き物に触れる根源的な楽しみを感じるのです。

かれらの摂餌はとても機械的です。動くものに反応し、時には体ごと飛びかかって舌を伸ばして絡め取ります。これはちょっと大きすぎて無理かなと思いながら与えたクモが、くしゃっと折り畳まれてうっすら透き通った体の中に入っていきます。さすがに満腹だろうと思いきや、そこからさらに同じような大きさのクモを2匹たいらげます。
次第に、口のついた四次元ポケット的な胃袋が目と手足を備えただけの生き物に見えてきました。人の愛情や投影などとは別の地平の存在に思えます。

食後しばらくして。お腹が膨れている

食後しばらくして。お腹が膨れている

またそんな姿を目にするうちに、冒頭で書いた通り雨のたびに流れてき流されてゆくのもいかにもかれららしいと思うようになりました。
「ばらまくようにたくさん産み、流転する中で一部が生き残る」。魚類や両生類の多くが取るこの戦略を、正反対のヒトは実感とともに理解することはできません。表情や動きに一見「われわれらしさ」を漂わせるカエルがそんな生き方をしていることに、自然の「他者性」を改めてはっきりと見せられている気がするのでした。

愛情や投影の及ばぬ姿を見せるカエルに「枝豆」「茶豆」と名をつけて飼育する。そんな手の届かなさを、これからも楽しみたいと思います。