不調を抜けて絵が他者の顔になる

不調を抜けて絵が他者の顔になる


ここしばらく、絵を描くことに調子の上がらない苦しい日が続いていました。

筆が進まず、ようやく何手か色を置いてみてもすべてがべったりと重苦しく、紙の上に現れた色面に何の驚きも感動もない。描きかけの自分の絵を見るのも嫌になっていました。

それが昨日の夜から好転し、今日は久々に「後に見えなくなる下塗りの美しさを惜しむ」気持ちが湧きました。僕にとって重要なのは、これが「自画自賛」ではないということです。自分の意思や意図とは関係なくそこに生まれた色面だからこそ、自然物を見るのと同じように他人事としてきれいだなと見惚れ、上塗りされて消えてゆくことを惜しむことができるのです。

僕は自分の絵を「自分が生み出したもの」「自分の分身」のようには思っていません。魚であれ何であれ(無生物でも)対象が他者である以上、それを描いたものも僕には関係のない他者です。
そしてそんなふうに絵を描くためには、「こう描いてやろう」という意思や意図、投影のようなものを筆の運びから消し去る必要があります。
それが適切にできれば紙の上に現れた絵は他者となり、僕は海で釣り上げた魚に対するのと同じような気持ちで自分の絵を見ることができます。個展で在廊している時、お客様がなければ僕はいつも絵に目を近づけ、色の重なりに他人事として見惚れています。

イラストの仕事をお請けして「監修者からコメントが返ってくる」描画が続いています。難しいのは「自分にご依頼くださった理由であるところの絵の本質を損ねない」ことと、「返ってくるコメントや予測した監修者の目線を絵に反映する」こととの両立です。
僕の絵の本質は「他者であること」だと思っています。そのために意思や意図を消して描かねばならないのですが、それは「仕事としてこう描くのが正解だろう」という考えとしばしば干渉し合うのです。

その後者が強くなりすぎていたのがここ最近の不調の原因でした。筆の運びに常に意思や意図がべったりとこびりついて、絵が他者にならない。どんどん重ねられてゆく自分の迷いや計算が透けて見えるのが不愉快でした。それはどなたがご覧になっても「どことなく出来が良くない」と簡単に見て取れる質のものだと思います。

そのことに昨夜ようやく気づいたのでした。
「仕事としての正解」を抑えめに、もし後で監修者から指摘が入れば修正すればいいだけのことと割り切ることにしました。その結果、昨夜の絵は無事に「他者の顔」を取り戻していたのではないかと思います。

また、「意思や意図を消す」には作業BGMもとても重要です。
気分を乗せるためではなく、意識の(脳の?)「意思や意図」を司る部分だけを適度にBGMに向けさせることで、筆の運びからそれらを追い出しやすい状態を作ります。

そんなわけでBGMにかけるコストは惜しんではならないと、最近の仕事の佳境期にはYouTubeプレミアム、AMAZONプライム、Netflix、Hulu、U-NEXTをすべて契約していたのですが、上質なBGMとして機能するコンテンツは食い尽くしてしまっていたのでした。そこで後二者を解除し昨夜から新たにDAZNに加入してみたのですが、これもすばらしくプラスでした。スポーツが刈り取ってくれる意思や意図の分量は絶妙です。

また気合を入れ直してがんばろうと思います!